パラリンピックを観戦して
この夏、東京オリンピック・パラリンピックが開催され、終了しました。
コロナ禍での開催については疑問がありました。選手の皆様の活躍も見られて感動したからよかったね、で終わらせるのではなく開催したことによる感染状況への影響や五輪開催関連費用についての検証を多面的に行いその結果を共有化することで次世代への教訓となると思います。
それはそれとして、今回、パラリンピックを開会式・閉会式も含めて様々な競技の観戦をしっかりとTVを通じてみることが出来たのは嬉しかったです。
特に「我々には翼がある」の開会式、「調和する不協和音」の閉会式どちらも魅力的でした。心身の状況が様々な方がともに同じ場にあって一つの舞台を作り上げている様子が充足感と安らぎに満ちているように感じられました。
現実の社会では私たちが何らかの障害のある方と学んだり働いたりと共に活動する機会はそれほど多くありません。今は実現できていないけれど、遠くない未来にこのような社会になるにはどうすれば良いか考えるきっかけとなりました。
「パラリンピック」という呼び名が出来たのは1964年の前回の東京大会でした。その当時は車椅子を利用する人のスポーツ競技大会だったため「パラプレジア(下半身まひ)」のパラとオリンピックを掛け合わせて通称としました。
今ではオリンピックと並行して行われる「パラレル」のパラを意味しているとのことです。しかし、「パラレル(並行)」では、どこまでいっても両者が交わることがないということになってしまいます。
「パラリンピック」という言葉は日本で生まれたという経緯もあり、語感も良いですが、何か別の名前に、そしていずれは殊更オリンピックと分けて呼ぶ必要がなくなる時が来た方が良いのかもしれません。
さて、今後、性別、障害の有無、国籍などの「多様性」については事業所でも重要な課題になってきますので、経営者も自らの価値観を柔軟にする必要があります。
最近、多様性を考える良い絵本を見つけました。
「はじまりは、まっしろな紙 日系アメリカ人絵本作家ギョウ・フジカワがえがいた願い」というフレーベル館から出版された絵本で「町のなかでも、絵本のなかでも、はだの色で人をわけてはいけません−。」が惹句です。
1960年代初めのアメリカで絵本の中に初めて白人、黒人、黄色人種の子供たちを同時に登場させた絵本作家の伝記です。1908年生まれの藤川尭(ギョウ・フジカワ)は、戦時中に家族が日系人収容所に送られるなどの体験を経ながら1998年に亡くなるまで数多くの絵本を遺しました。
私も興味を持って「Babies」というその画期的な転機となった本を取り寄せました。ぷくぷくっとした色々な人種の赤ちゃんたちの仕草は、肌の色の違いはそれぞれの愛らしさを生み出すもとであり、それ以上でもそれ以下でもありません。
ギョウ・フジカワが取り組むまで、こんな当たり前のことさえも実現されていなかったことに驚きを感じますが、自分と異なるものを受け入れるのは本当に難しいこともわかります。
私自身が固定的な価値観に全くとらわれていないといえば嘘になりますが、少しずつでも心の可動域を広げていきたいと思っています。
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